同窓生の活躍

水泳を続けて 西部 知子さん

プロフィール

1947年1月8日 岐阜県加茂郡川辺町の疎開先で生まれる。
1954年 小学校1年生で名古屋に転居。
野立小学校~椙山女学園中学校~椙山女学園高等学校~大阪・東洋レーヨン(現在の東レ)で水泳を続ける。
結婚後、千葉県在住

現況報告

1990年頃から再び水泳を始め、マスターズ大会に参加するようになりました。海外の大会も最初はニュージーランドへ12日間。半分は観光で初めての時は不安でしたが、一緒に行ったツアーの皆さんとは、今でも大会で会って話をするのが楽しみです。次の年はモントリオールへ。モロッコ・ドイツへは娘と一緒に行きました。しばらく海外は遠のいていたのですが、3年前の大会に夫がラジオで、中尾ミエさん(歌手)がスェーデンの大会に出ると言っていたのを聞き、一緒に行こうと誘われ(夫は応援のみです)昔の仲間と再び海外大会に出るようになりました。昨年はイタリアへ。大会が終わった後の観光も楽しみの一つです。50mバタフライで年齢別10位までのメダルを貰えたのもうれしい土産になりました。

椙山の思い出

奥平先生が水泳部員に5歳上の姉を勧誘して下さった縁で、私も同じ椙山に入りました。ちょうど東京オリンピック(高校3年)の前で、中学2年の時に山岸先生もコーチとして来て下さり、夏には糸菊会館や菊坂寮で合宿をして、今思えば皆でワイワイと楽しかった思い出がいっぱいです。東京オリンピック準候補になり、冬には下呂や大分に合宿に行ったりもしました。

同窓会に対して、同窓生に向けて

最初の関東支部同窓会には、水泳部の先輩に誘われ、東京のホテルの時に参加しました。昭和40年卒が幹事になった時は、同級生をかき集め20人位になりましたが、今は4~5人はいつも参加しています。今は"なでしこ会"になり、事務局の仕事をさせて頂いています。420名余りの方に案内状を出していますが、是非、返信ハガキをよろしくお願い致します。

在校生に向けて

私たちの中学・高校の頃は、一学年前は4クラスしかなかったのに、1クラス60名位で、11クラス位あったでしょうか。先生方も大変だったと思います。偏差値という言葉を言われだしたのが、すぐ後の学年からではないかと思います。「人間になろう」という言葉。金剛鐘、学園歌の歌詞が今でも心に沁みついています。